三菱重工長崎造船所

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平成3年4月社会人となり長崎に赴任した。長崎造船所を訪れたのはその初出勤が2回目だった。

 

当時長崎造船所は本工場と言われる立神地区と香焼町にある香焼工場、諫早市にある工場など数カ所に分かれていた。造船関連は進水台1つとドック3つある本工場と言われる立神と大型建造ドック1つと修繕ドック1つがある香焼工場、更にその香焼工場に隣接する形で今では関連会社の敷地にわった艦艇専用の長浜工場があった。因みに、長浜の進水台で日本で初めて建造したDDG/イージス艦が生まれた。

 

初めて長崎造船所を訪れたのは大学院の修士1回生のときで秋頃だったと思う。本工場である立神地区に造船所の本館がありそこで人事の担当者の案内で工場見学をスタートさせた。当時奨学金を会社より受給しており修士が終われば就職するつもりだった。ただ見学する前の段階では飛行機を造るか船を造るか希望を決めかねていた。長崎造船所を見学に来たのは造船にたずさわる希望を第一候補にするかしないかの判断をするためでもあった。

 

立神地区では造船より陸上プラント関連の工場を見学するのがメインとなった。当時は一工作と呼ばれたタービン工場である。因みに、二工作は製缶工場と言われた。缶は缶詰のことではなくボイラーのこと、ボイラーの圧力容器を指す。二工作は香焼にあった。後で知ることになるがプロペラ工場も立神にあった。これは謂わば鋳物工場である。銅合金(Ni-Al-Bz)で造られるプロペラはつい2〜3年前に閉鎖されたがそれまでは日本国内で有数の大型プロペラ工場であった。しかも造船所内にプロペラ工場もあるというのは工場が閉鎖されるまでは日本国内唯一の存在でもあった。

 

その立神から香焼に移動する際通船に乗る。その案内をされたとき正直ビックリした。父が大手の高炉製鉄会社に勤めていた。その父の案内で製鉄所に足を運んだことがある。おなじ修士のときに工場実習として大分の工場に2週間通ったこともある。そのときはその会社の独身寮に泊まった。なので工場内を循環バスが行き来し従業員が工場の建て屋と建て屋の間をバスを使って移動する。そんな光景は見慣れていた。長崎造船所も構内を循環バスが往来していた。ところが、である。工場間を船が行き来するのを見るのは生まれて初めてであった。何か無償に嬉しくなった。この工場に勤めていたら仕事の都合で毎日船に乗れる、そう思った。

 

今考えれば単純であった。単に、香焼と立神の2つの工場が離れていて直線距離で近い長崎湾内を走る船の方が時間短縮になる、それも通船がある一つの理由だったろう。しかし、当時工場内を行き来するのに船に乗るなんて仕事と趣味が同時に出来る!ぐらいの気持ちになっていたのである。

 

その当時にはなかった女神大橋が開通し長崎造船所から東京に転勤する前に通船は廃止となった。香焼工場に行くのも循環バスに取って代わったのである。そしてとうとう去年2019年には長崎駅から歩いて数分の大波止から出ていた通勤船も廃止となった。これはNHKの全国ニュースにもなったみたいだ。長い間なじんだものがなくなるのは悲しい。感慨深いものがある。もう少し時間が経てばその悲しみや感慨を生んだものが忘れ去られる。歴史の流れとはそういったものだろう。自分達は通勤船「グラバー」に乗って毎日香焼まで通ったんだ。そう言えばへぇ!そうなんですか!?と若い人から反応が返って来る。そんな時代ももうすぐそこに来ている。

 

話がそれてしまった。結局その香焼工場を見学に行く通船を目の当たりにして事実上長崎造船所を希望したと言っても過言ではない。でもあの当時本当に社内でも長崎造船所は特異で唯一の存在だったと思う。良い意味でも悪い意味でもそうなった。願わくば変動する世界に合わせて新たな役割を担って再び造船所の地位が工場のステータスが上がることを願って止まない。

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