ファーストペンギンになりたい。なれたらなぁ。なってみよう。いつかは、、、と思っていた。
その決意とは言えない憧れの原点の一つが野茂英雄である。
そのことを想起させてくれる雑誌がNumberで今店頭に並んでいる。
1995年、今から25年前太平洋の向こうに渡った野茂英雄。
そうか、あの年だったのか。年明け早々に阪神大震災、3月には地下鉄サリン事件、5月には富士山山麓でのオウム真理教の教祖逮捕、、、マスコミの報道姿勢に疑問を持ちながらも少なくとも年の前半はテレビに釘付けになった記憶が鮮明に残っている。
野茂英雄は米大リーグに行って活躍して暗い日本を元気にしよう。そんな思いで行ったわけではない。ただただ海の向こうで野球がしたい、そんな純粋な想いを決意に変えて何があろうが、何を言われようが怯まずに挑戦した、チャレンジした。その上さらに結果を出した。
かっこいい。ただただそんな野茂英雄の姿に憧れた。ふるえた。
マイクを向けられるとポツポツと朴訥にしゃべる。ピンチになっても動じない。少なくともマウンドや公の場では感情を露わにしない姿がなおさら憧れを強くし強烈な印象を残した。
そのマウンドで振りかぶる野茂英雄の姿は南極で強風にさらされるペンギンの姿になんだか似ている。
ファーストペンギンという言葉、というか概念を知ったのはテレビを観ていてのことだ。集団で動くペンギンは特にリーダーがいるわけではない。産まれた地を離れ一列になって進んだ先に初めて見る海が広がる。本能がその海へ飛び込めと言っている。しかし、初めて見る海。その水面下にいったい何があるのか分からない。海水はどんなものかも分からない。飛び込んだ先に何が待っているのか。分かってるのは海に飛び込まないと先にすすめない、ということだけだ。そんな中ある一匹、いや一羽が意を決して海に飛び込む。それを側で見ていた別のペンギンが後を追う。またさらに別のペンギンが同じ様に。流れが出来た。もう後は次々にペンギンの集団は海へと飛び込み本能に従って初めての海をスイスイ泳ぐ。
この最初に意を決して海に飛び込んだペンギン。これをファーストペンギンと呼ぶ。次々と海に飛び込んでしまえば海の中を探してももうどれがファーストペンギンなのか分かりはしない。しかし良いのだ。もう十分ファーストペンギンはファーストペンギンたる役割を果たした。
日本で人気の高いプロ野球。そのプロの投手が海の向こうの大リーグへ最初に飛び込んだ。(正確には前例はあるにはあるらしいが。)野茂英雄がファーストペンギンとなったのだ。こちらはペンギンの様な本能にかられてではなく野球をやりたくて。いや野球をやりたいという本能から。
そう今振り返ってみても野茂英雄は雲の上の憧れだ。
【写真】文藝春秋社2020年9月3日号”Number”表紙から
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