長島愛生園訪問記

一般

初めて舌読、ぜつどくという言葉を聞いたのはいつのことだろう。聞いた一瞬戦慄が背中を走ったのを覚えている。

 

ハンセン氏病、もともとの病名をらい病という。そのらい病に罹患し視力を失った患者が本を読むのに用いた手段である。舌で点字をなぞるのだという。

 

ハンセン氏病はわずか4〜5μ(ミクロン、1000ミクロン=1mm)のらい菌に感染しておこる病気でその菌の特性から身体の低温帯、特に末梢神経を冒すという。手足、顔や皮膚など。瞼が閉じることが出来なくなることもある。瞼が閉じられないと眼の表面に水分が行き渡らなくなり失明することが多々あるそうだ。自分も誤解していたが失明するのはハンセン氏病に罹患した直接的な要因ではなく副次的な要因と言える。その失明したハンセン氏病患者は手先の感覚が無い。物を手で触って感じることが出来ないので指先でたどっても点字を読めない。それでも本を読みたい。そう切望した結果、最後の手段としてたどり着いたのが舌で点字をたどる、というものだった。

 

実際、舌で点字をなぞる患者の姿を映した映像を見たことがある。どれほど困難であろうとどれほど時間や手間がかかろうとも本を読みたい。その一心でこの人達は必死に自分の病気と向き合っているのだ。闘っているのだと思った。人が生きるということ、人の生き様について置かれた環境や条件の中でときには壮絶な想いをしながら、一方日常の中である意味サラリと淡々としている。その姿になにか自分の日常がこの上なくぬるま湯にドップリ浸かっている気がしたのを覚えている。

 

 

ハンセン氏病、すなわちらい病の存在を知ったのは割合子供の頃だった。それは孔子がらい病に罹患した弟子を見舞うシーンを何かの本で読んだことだった。らい病は伝染病が故に手を取って励ますこともままならず、壁越しのお見舞いとなった。顔を直接見ることも出来ずおそらくもはや再会することも期待出来ない。そんな状況において愛弟子を想う孔子の胸裂かれる気持ちが描かれていた。子供の頃故か弟子思いの孔子の人柄とらい病という伝染病の恐ろしさが印象に残った。

 

次のハンセン氏病との出会いは中学時代の課外授業でだった。遠く岡山からハンセン氏病患者が話しをしにやって来た。長島愛生園というところからだという。そこは国立の療養所でありハンセン氏病患者が収容され暮らす島だという。1時間か2時間程度であったろうか。お茶を飲む際両手で湯飲み茶碗をしっかりかかえゆっくり飲む姿が印象に残っている。サングラスをかけていた。カトリック信者だった。カトリックのミッションスクールだった中学ならではの人選だろうか。住んでいる神戸と同じ瀬戸内の少し西の方に自分の知らない世界があり、しかもそれが戦前から脈々と受け継がれている。近くて遠い世界。そんな印象が強烈に残った。

 

 

ところで、2020年という年はもう少し時間が経って振り返ってみたとき人それぞれに違いはあるだろうが、何か突然世界がひっくり返った様な印象を持つのだろう。人それぞれなるも生活が一変し、価値観が変わった。あるいはどんでん返しが起きた。そんな渦中の中でウイルスという言葉からの連想だろうか。長年記憶の奥底に沈殿していた瀬戸内の小島への想いが沸々と熱せられゆっくり浮き上がって記憶の表面に現れて来た。そうなると今の時代は便利だ。インターネットで調べたら行き方も見学の日時も申し込みも簡単に調べて出来る。

 

そんなこんなで2020年も年末年迫る12月半ば瀬戸内に浮かぶ長島にある長島愛生園の見学に参加した。

 

愛生園は岡山にある。岡山駅からJRで赤穂線を兵庫県側に30分弱行くと邑久駅に着く。そこからは愛生園から手配されたバスに乗り30分ほど揺れながら山陽の温暖で比較的穏やかな気候特有の風景を眺めながら進む。右手に橋が見えた。バスが右折する際に「邑久光明園」と「長島愛生園」の行先表示が見える。邑久長島大橋は本州と島を別つ海の幅わずか30メートル程度でさほど「大橋」とは思えない。しかし、「人間回復の橋」との別名があル通りその掛けられた橋の意味は大きい。その意義を込めて大橋と名付けたのだろう。

橋を渡って10分程度だろうか。細く狭い旧道が回りくねって通る横を若干広い整備された道をたどって愛生園の歴史館に着く。その旧本館で聴いた説明と展示物を見るに与えられた時間が1時間ほど、更に歴史館を出て園内を回っての説明が1時間。計2時間ほどの見学ツアーだった。

 

歴史館での説明はハンセン氏病、つまりらい病についての説明に始まり長島愛生園の歴史、現在の愛生園の状況などについて30分程度で聴いた。

 

ライ病の歴史は古い。ただし、感染力は弱い。弱い故に細々と時代時代を乗り越え少数の人に感染しその原因となるらい菌は歴史を生き抜いて来た。幼児、子供が感染する。潜伏期間は数ヶ月から数年、時には数十年になる。身体の低温帯に繁殖する。手先や足先、皮膚。筋肉にも影響を及ぼす。手首が支えられず垂れる。目の瞬きが出来なくなる。末梢神経がやられ知覚が無くなる。

 

末梢神経がやられると熱い湯飲み茶碗を手にしても何も感じない。そんな患者のために二重の湯飲み茶碗が展示されてあった。熱湯の高温が伝わらない様外手で触れる外側と内側の間に空洞を設けた二重構造の湯飲み茶碗である。

皮膚への影響、手足への感染。全て人の外見に影響する。感染すると感染したことが分かり易い。外に出ると感染者であることが分かる。差別の原因になり易い。

 

話しは変わるが自分の持病であるアトピーも外見に顕著に現れる。他人から見ると異様に映ることもある。そのことが人間関係にも大きな影響を及ぼす。振り返ってライ病は同じ様に外見に現れるだけでなく伝染病である。伝染力は弱いとはいえ移ればその人の人生が変わる。有効な特効薬がなかった時代のライ病とは恐ろしい伝染病であった。

 

特に、昭和に入ってからの「らい予防法」は昭和6年に制定された後平成8年まで続いた。「無らい県運動」は伝染病患者そのものを忌み嫌い排斥するものであったのである。

 

状況が変わったのは米国でプロミン薬が開発され完治する例が出てきたことによる。現在では多剤併用療法(MDT)により治療されるのが通例とのこと。

 

今長島愛生園では130人の入居者が生活しているという。

 

この愛生園を世界遺産にしようという動きがある。それはともかく、歴史的な遺産という位置付けには納得がいく、と同時に2020年から今年2021年の世界的パンデミックの中この長島愛生園が語る役割は大きい。未知のウイルスに対する人々の対応・対策は歴史から学ぶ。歴史は韻を踏む。決して歴史は繰り返さない。人がそれを繰り返す。

 

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